2024年7月8日月曜日

気づきー覚書#1

 意識と思考、思考の内容については意識とは別物。

五感を通した認識、言語化する前の純粋な認識は意識が統合して感受している。

そのあと思考を使って言語化したら概念となる。

意識的にいることは、気づいていること、つまりマインドフルネス。

身体の感覚にできるだけ集中して、気が付いていることが重要。

過去の出来事に関する思考や、未来への不安、意味のない妄想は意識的に気づくようにして、

思考=私ではないことを見抜いていくことが必要。

訓練として、感受体としてのそのままの体への気づきの瞑想をする。

何も意図をせずに、そのままを観察する。


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2024年7月7日日曜日

マインドフルネスー実践の為のtips4#(ニュートラルメソッド)

思いつくままに記事を書いていますので、記事の順序は考慮していません。

本当は理路整然としたいとは思っていますが、私の頭の整理が整っていませんので、というか整理のために書いていますのでご了承ください。


気づき(マインドフルネス)の実践を続けていると、自ずと「私」って存在がどんな物事に捉われているか?ってことが判ってきます。

それで、あぁ、自分にはこんな信念とか怒りのツボとか執着があるんだ...ってことが明白になっていきます。

で、

マインドフルネスは今の瞬間に体の感覚とかどんな思いでいるとか、意識的に気が付いていること、またはその訓練のことなのですが、

ただ気が付いているだけでもその効果はあるとは思います。

でも、それだけでは心は純粋になりません。

※心は本来純粋なものですが、私的にはその純粋さを顕わにするには、少なからず中和する作業が必要だと思っています。

心の中身、思考と意識の思考と付随する感情の内容に関してはほぼ全てが虚構(フィクション)であると捉えてもいいのですが、今の瞬間に全く無関係な思考は虚構としてとらえ、今の瞬間に捉えられる現象は真実として、例えば、”朝の空気がすがすがしい”とか、普段の家族との対話とか、人生や仕事に必要な未来の計画とかは必要な思考として考えるべきでしょう。

マインドフルネスの入門的な実践としては朝の軽いウォーキングをお勧めします。

ダイエット的な効果も期待できますしね。

さて、実践の方法ですが歩きと共に足の裏の感覚や動いている体の感覚に注意を払い、気づきをとぎらせずに客観的に観察をしましょう。まるで、花の生態を観察するかのように。

最初は前述したような方法がいいかと思いますが、コレじゃなきゃだめだなんてことはありませんので、自分なりのやり易い方法を模索してもいいかとも思います。

そして、過去の出来事や未来への不安が思考として現れたら、一旦立ち止まってその思考をよく観察し、中立化します。

前の記事のマインドフルネスー実践の為のtips#3(言葉による私の世界)に書いてありますが、私たちは起きている現象を言語化し、あるがままの現象(真如)を変容させて記憶しています。

個人それぞれが自己の経験による概念のフィルターを通して出来事を概念化して記憶しているので、これを中立化します。

例えば、”私がAさんに私の所有する鞄を壊された。許せない!(怒りの感情)”という思考が現れたとします。

その思考は個人のフィルターを通して言語化された思考ですよね?

まず、私は個人として存在していませんので、主語である”私”という思考が虚構ですので、これをクリアーにします。

次に”Aさん”ですが、この世界は自他の区別のない現象であるので、”Aさん”もクリアーにします。

またまた次に、”私の所有する鞄を壊された。”という述語も”私の所有する鞄”は私がないので自己所有という思い違いの概念ですし、”鞄を壊された”も、変化し続ける一時的な現象である鞄が壊れただけであって、私とAさんは区別のない現象であるのなら、Aさんが壊したという表現もできないんですよね。

そして、その思考に伴う”許せない!”という感情も、許せないと思っている私もAさんも区別のない現象で、怒りの感情はそのときに体に現れる感覚に”怒り”という言葉を付与しているだけで、単なる体の感覚なのです。

その思考をクリアーにしたら、最後にその思考に”良い・悪い”どちらでもない、虚構であるただの思考に過ぎない。って、手放します。

このニュートラルメソッドが完了したらまた、歩く観察瞑想をマインドフルに行いましょう。

あ、

補足しますが、怒りの対象であるAさんも、虚構を真実だと思い込んで生きています。

仏教でいう忍辱はただ耐え忍ぶのではなくって、深い洞察と理解が伴う仏教的なこの世界への理解だと私は解しています。

これも、日々の実践の継続が必要です。私はこのメソッドでかなり心が柔軟になりました。

もっと深く理解したい方は、ヨガ哲学、サンキヤ哲学や唯識思想を学んでみると納得がいきますし、メソッドが確実になります。

自己とは思考が作り上げた幻想です。

私たちの真実の自己は”ダルマカーヤ(法身)”です。仏教的な文脈で表現するとそうなりますが、ブラフマンでもアートマンでも神でも、なんと呼んでも構いません。

この世界にはそれしかないし、全てを法身が現象させていて、本当は法身にも名前は付いていません。

私たちは名前のない世界に名前のない”私”が区別なく現象しているだけなのですが、区別も”私”も現象を言葉により概念化し、思考によって創作しているだけなんです。


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2024年6月30日日曜日

マインドフルネスー実践の為のtips#3(言葉による私の世界)

 林檎の語源って、鳥の集まる木って意味だそうな。

元々日本には中国から和林檎が輸入されて、私たちが現在食べている西洋林檎より小ぶりな種類で、今はほとんど栽培されていないそうです。

へぇーそうなんだぁ...って感じですよね。

さて、原始から林檎にリンゴって名称は付いていなくて、先に話した語源から名づけられていますよね?

まあ、日本に輸入された時に名称と共に植樹されているわけで、その名称が現在も引き継がれていて、集団的な合意に基づいて林檎はリンゴって呼称しましょう!ってなことで、赤くて丸い果物をリンゴって呼んでます。

でもよく考えてみると、林檎自体にはリンゴって名称は付いていなくて、人だけがリンゴって呼んでいますよね?

鳥さんはリンゴ~なんて鳴きませんよね。

皆さん、このことをアナタの身の回りの物に当てはめてみてください。

コーヒーカップとか、パソコンとか、椅子とか、ベッドとか...

ぜーんぶ、名前は付いていません。

私たちが世界と呼んでいる自然環境にも元々名称は付いていません。

植物や動物も元々名称は付いていなくて、文明や化学が発達するにつれ、名称を付けてカテゴリー化し、さらに細分化して、細かな種別をしています。

そうなんです、

言葉という音の響きが「物」そのものを指ししめすと勘違いし、言葉が指し示す事物そのものが存在していると私たちは思っています。

そのようにして、言語による主語、述語、動詞、形容詞...の表現とおりに世界があるんだ!って人は思っているのです。

さらに、仏教の縁起説によれば、すべての事象は区別のない相関関係によって仮に存在しているのであり、世界という現象から全く何の影響も受けずに独立して自性し永続する存在なんてありえないんだよ、ってことを説明しています。

であるのなら、林檎は世界から切り離されて存在する現象ではなく、その現象から林檎だけを切り取ってリンゴって表現はなしえないわけで、林檎って現象はあくまで宇宙と一体の現象であるのだから、そこだけ名前を付けるのおかしくね?ってことも言えますよね。

そしたら、自分の体に「私」とか「個人」とか「男」とか「女」とか、「父」とか「娘」とか「学生」とか「会社員」とか表現しえない訳です。

「私」と私にまつわる世界は言葉による概念によって表現される実体のない音や思考の中の言葉であると言えます。

ひとつ前の記事、マインドフルネスー実践の為のtips#2(心:意識と思考)で書きましたが、思考は言葉による虚構であり、思考の内容は意識とは全く無関係です。

ですが、今に気が付いていて、理路整然としていて、自我執着に捕らわれない思考は問題はありません。

瞑想による訓練を普段の生活にフィードバックして、普段の生活でできるだけ気づきを保つと共に、主に自動思考は全て虚構であり、妄想なんだと気が付いていることが肝心です。

自動思考に捉われてしまっても後で気が付いて、虚構だと気が付いていけば徐々に自動思考は少なくなりますし、捉われてしまってもそこから抜け出す時間も早くなります。

また、瞑想時は呼吸に集中していることが重要ですが、普段の生活や歩く瞑想時には思考を中和してニュートラルにすることも必要だと私は思いますので、このことは後に記事にしたいと思います。


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2024年6月10日月曜日

マインドフルネスー実践の為のtips#2(心:意識と思考)

 心ってなんでしょうか?

仏教的な文脈で説明すると、

行為の元となる意思、知識、欲求、感情(怒りや憎しみ、憂い、喜び...)等の構成要素、機能を包括した概念(心所:チッタ)ってことになると思いますが、人が生命を維持するために備わった機能、記憶装置?自立学習型AIプログラム?なんて表現も可能なのかな。

まあ、意思と思考と感情を併せたのが心と定義付けするのが一般的ですし、シンプルな定義が好きな私はそのように捉えています。

もうちょっと詳しく知りたい方は、【心所】で検索してみてください。

さて、

マインドフルネス瞑想の基本の基本は静かな場所で座って、呼吸に集中し、雑念が生じたらジャッジせずに(良い悪いの判断をせずに)、呼吸に集中すること。

まあ、これがどんなマインドフルネス瞑想の書籍を読んでも書いてある基本ですよね。

でも、これだけだと何故ジャッジしないのか?ってことが判らない。

まず、ジャッジする前のその雑念は個人の認知バイアスに関係していて、とにかくその思考が心の苦しみや虚構の世界を生み出してるよ、ってことを理解しておかないと、ただ呼吸に集中しているだけで、瞑想から普段の生活に戻れば、ぐるぐる思考に捉われている元の「私」がいるだけなんですよね。

そして、瞑想している「私」が、この「私」って何?なのかも理解しておかないと、心の苦しみに対処というか、ニュートラルにすることはできない。

まあ、「私」と思考に関しての関係性とか諸々の説明は以降の記事で追って説明をしたいとは思いますが、まずはですね、意識と思考についてから。

思考に関してはもっと詳しく説明する必要がありますが、基本的な事柄を先行しましょう。

仏教、唯識では前六識、目、耳、鼻、舌、身、意で、意の意識は感覚器官の対象を総括して判断し分別する心の働きとされています。

意識は生きている人の共通感覚と言えますが、しかし、分別する心の働きによる意味付けは言語や男女の別、世代、職業、肩書等...によって変わってきます。

つまり、雑念である思考は個々によって変わってきますが、対象認識を判断し分別する前、概念化する前の純粋な認識は人類の共通認識であると言えますよね。

では、雑念の元の思考はどうでしょうか。

端的にいうと、思考は全て虚構(フィクション)なんです。

皆さんは同じ出来事なのに人それぞれによって評価や意味づけが違うのを疑問に思ったことはありませんか?

起きている出来事はただ起きているだけで、最初からその出来事に意味は付していません。

意味は出来事が起きた後から個人の認知バイアスを通して意味づけしていませんか?だから、個人毎に意味や評価が違うんです。これまで生きてきた経験による先入観や価値観により意味づけされた言語による表現が思考です。この思考はその時代や地域性を反映した社会的な概念を真実を検証せずに私たちが無自覚に採用しているただの概念で、これは虚構なのです。そして、この思考を「私」と勘違いしています。

だって、そうでしょう?

そもそも社会にある既成の概念で、生まれる前から持ってきた価値や判断なんてないでしょ?

そして、その雑念=思考は「私」ではないんですから、意識と思考は無関係ですよね?

であれば、マインドフルネス瞑想で呼吸に集中して雑念がでたら、その雑念は「私」とは無関係ですから、基本的にはただ思考を眺めるだけでいいんです。

思考を止めて呼吸に集中し直すでもいいでしょう。

その思考は「私」とは無関係なんだから、良い悪いのジャッジも必要ありません。

良し悪しの判断を決めているのも今まで生きてきた経験による判断で、空の思想から見ると「良い」は「悪い」という対比によって成立し、「悪い」という観念は自立して成立しません。必ず対比される「良い」に準拠して成立しています。

そして、その、良し悪しの区別に完全な中心ラインを引くことができるでしょうか?仮にできたとしてもそのラインは社会や他者から影響を受けて変化しませんか?

なので、瞑想時には意識が本来の自己で、思考は「私」とは全く無関係な現象として取り扱います。もっというと、意識が本来の自己なら、その意識を生み出している生命の現象が本当の私です。だから、私たちは世界であり、宇宙なのです。


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2024年6月9日日曜日

マインドフルネスー実践の為のtips#1(継続は力なり)

 マインドフルネスの実践の方法は沢山の書籍が出ていますし、youtubeを見れば解説している方も大勢いらっしゃいますので、私からの基本的な説明は省きます。

が、細かな実践の為の提言は思いつけばこのブログで発信していきます。

有名なのはジョン・カバットジン博士の著作であるマインドフルネスストレス低減法ですよね、私も一読はしています。

さて、マインドフルネス(気づき)の一番の肝になる重要なことは、継続することです。

あたりまえだろ!って思った方が多いかとは思いますが、本当にこれが一番重要なことなんです。始めた最初はよちよち歩きの赤ちゃんのように集中できずにフラフラしたり、思考に捉われ続けたり、思うように気づきの集中や安定に繋がらずイライラしたりしますが、続けていれば徐々にですが気づきを保ち続けることが可能となっていきます。

私は3年前程からマインドフルネスを実践してきましたが、正直な話、生真面目に実践を続けてきたわけではありません。そうではありませんが、3年前の心の状態と今の状態ではかなりの差があると実感できています。

最初は瞑想を15分位から初めて、時間や回数を増やせるのならそれもいいですが、時間の長さや回数や質はそれほど重要ではありません。それより、毎日の継続の方が重要なんです。続けていれば徐々にですが変化を実感できるでしょう。

メンタルが不調で5分しか続けられなくてもそれでOKです。

それでも、とにかく続けること、これが肝です。


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2024年6月2日日曜日

識の所変と三能変 心(純粋意識)が生み出す世界(現象)

 私たちが認識している世界は、私たちの心(意識)が転変(現象が移り変わる)しながら生み出されている。

唯識という仏教思想は、この宇宙のすべての現象は心が生み出したものである。

と、説きます。

この宇宙の現象を生み出す元となっているのは初能変の阿頼耶識、第二能変の末那識、第三能変の前六識で、この三つの識(認識)がこの世界を現象させています。

この三つの能変は後に詳しく説明したいと思います。

【備考】

所変―変化し作り出された現象

能変―宇宙という現象を生み出し変化させているもの


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仮有(けう) かりそめの存在

 この世界(私と私を取り巻く環境【宇宙】)の現象は、因(原因)と縁(環境、条件、要因...)の和合によって結果、諸々の現象が生じています。

例えるなら花の種が因で、縁は自然の環境。

環境は土壌とかお天気とか、バクテリアとか受粉を助けるミツバチとか。

それらが和合して結果、花が咲きますよね?

花という結果はそれのみ単独で生じるのではなくって、縁(条件)によって生じるのであって、結果である花が自力で咲くなんてありえませんよね?

これを仏教では因縁果(いんねんか・いんえんか)と呼びます。

人も男女の和合により「私」が生まれ、男女の別、容姿、性格、人生等は縁(条件)に影響され、自己の思いのままにならない存在として生きています。

「私」とは因と縁の関係性の網によって仮に存在しているカリソメ(仮有)の存在なのです。


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気づきー覚書#1

 意識と思考、思考の内容については意識とは別物。 五感を通した認識、言語化する前の純粋な認識は意識が統合して感受している。 そのあと思考を使って言語化したら概念となる。 意識的にいることは、気づいていること、つまりマインドフルネス。 身体の感覚にできるだけ集中して、気が付いている...