思いつくままに記事を書いていますので、記事の順序は考慮していません。
本当は理路整然としたいとは思っていますが、私の頭の整理が整っていませんので、というか整理のために書いていますのでご了承ください。
気づき(マインドフルネス)の実践を続けていると、自ずと「私」って存在がどんな物事に捉われているか?ってことが判ってきます。
それで、あぁ、自分にはこんな信念とか怒りのツボとか執着があるんだ...ってことが明白になっていきます。
で、
マインドフルネスは今の瞬間に体の感覚とかどんな思いでいるとか、意識的に気が付いていること、またはその訓練のことなのですが、
ただ気が付いているだけでもその効果はあるとは思います。
でも、それだけでは心は純粋になりません。
※心は本来純粋なものですが、私的にはその純粋さを顕わにするには、少なからず中和する作業が必要だと思っています。
心の中身、思考と意識の思考と付随する感情の内容に関してはほぼ全てが虚構(フィクション)であると捉えてもいいのですが、今の瞬間に全く無関係な思考は虚構としてとらえ、今の瞬間に捉えられる現象は真実として、例えば、”朝の空気がすがすがしい”とか、普段の家族との対話とか、人生や仕事に必要な未来の計画とかは必要な思考として考えるべきでしょう。
マインドフルネスの入門的な実践としては朝の軽いウォーキングをお勧めします。
ダイエット的な効果も期待できますしね。
さて、実践の方法ですが歩きと共に足の裏の感覚や動いている体の感覚に注意を払い、気づきをとぎらせずに客観的に観察をしましょう。まるで、花の生態を観察するかのように。
最初は前述したような方法がいいかと思いますが、コレじゃなきゃだめだなんてことはありませんので、自分なりのやり易い方法を模索してもいいかとも思います。
そして、過去の出来事や未来への不安が思考として現れたら、一旦立ち止まってその思考をよく観察し、中立化します。
前の記事のマインドフルネスー実践の為のtips#3(言葉による私の世界)に書いてありますが、私たちは起きている現象を言語化し、あるがままの現象(真如)を変容させて記憶しています。
個人それぞれが自己の経験による概念のフィルターを通して出来事を概念化して記憶しているので、これを中立化します。
例えば、”私がAさんに私の所有する鞄を壊された。許せない!(怒りの感情)”という思考が現れたとします。
その思考は個人のフィルターを通して言語化された思考ですよね?
まず、私は個人として存在していませんので、主語である”私”という思考が虚構ですので、これをクリアーにします。
次に”Aさん”ですが、この世界は自他の区別のない現象であるので、”Aさん”もクリアーにします。
またまた次に、”私の所有する鞄を壊された。”という述語も”私の所有する鞄”は私がないので自己所有という思い違いの概念ですし、”鞄を壊された”も、変化し続ける一時的な現象である鞄が壊れただけであって、私とAさんは区別のない現象であるのなら、Aさんが壊したという表現もできないんですよね。
そして、その思考に伴う”許せない!”という感情も、許せないと思っている私もAさんも区別のない現象で、怒りの感情はそのときに体に現れる感覚に”怒り”という言葉を付与しているだけで、単なる体の感覚なのです。
その思考をクリアーにしたら、最後にその思考に”良い・悪い”どちらでもない、虚構であるただの思考に過ぎない。って、手放します。
このニュートラルメソッドが完了したらまた、歩く観察瞑想をマインドフルに行いましょう。
あ、
補足しますが、怒りの対象であるAさんも、虚構を真実だと思い込んで生きています。
仏教でいう忍辱はただ耐え忍ぶのではなくって、深い洞察と理解が伴う仏教的なこの世界への理解だと私は解しています。
これも、日々の実践の継続が必要です。私はこのメソッドでかなり心が柔軟になりました。
もっと深く理解したい方は、ヨガ哲学、サンキヤ哲学や唯識思想を学んでみると納得がいきますし、メソッドが確実になります。
自己とは思考が作り上げた幻想です。
私たちの真実の自己は”ダルマカーヤ(法身)”です。仏教的な文脈で表現するとそうなりますが、ブラフマンでもアートマンでも神でも、なんと呼んでも構いません。
この世界にはそれしかないし、全てを法身が現象させていて、本当は法身にも名前は付いていません。
私たちは名前のない世界に名前のない”私”が区別なく現象しているだけなのですが、区別も”私”も現象を言葉により概念化し、思考によって創作しているだけなんです。
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